静岡県立小笠高等学校で農業を教えていた頃、私が指導していた生徒が、環境大賞として県知事から表彰されるという嬉しい出来事がありました。
総合学科である小笠高校では、生徒が自分の興味に応じてさまざまな科目を選択できます。そのため、私の担当する科目をたくさん履修してくれる生徒もいました。その中のひとりが、自ら作文コンテストを見つけてきて、「指導してほしい」と声をかけて書いた作文です。
テーマを決めて作文を書かせ、添削をしたり、一緒に内容を考えたり、そんなことを何度も重ねながら、ひとつの作品としてまとめあげていきました。生徒が書いてくる文章を読むたびに、「そうそう、まさにそれを伝えたかったんだ」と、自分の考えが言語化されていくような感覚を覚えました。教えているようでいて、逆に教わっているような、そんな楽しい時間でした。
「教えることは、学ぶこと」――その言葉の意味を実感しました。

農業から学んだこと
静岡県立小笠高等学校 3年 中林由佳 (2005年)
「よし、それじゃあ、今収穫したトウモロコシを生のまま食べてみよう」、先生の言っているその話の意味が私は最初理解できませんでした。「きっと、だましているんだ」と思いながら、そっとかじった一粒の生のトウモロコシはとても甘くておいしく、私はとても感動してしまいました。
これは「農業科学基礎」という授業で自分が育てたトウモロコシを収穫した時のひとコマです。私の通っている静岡県立小笠高等学校は総合学科の学校で、自分の興味や関心にあわせて科目を選ぶことができます。調理師希望の私は「食品加工」「食品科学」「食物」といった調理師に関係する科目を選択していますが、食材の勉強として選択した「農業科学基礎」で農業の面白さにひかれ、「草花」や「温室野菜」や「課題研究」といった農業科目も選択しました。「草花」では種から育てた花で花壇を作り、「温室野菜」では地域の特産物である温室メロンを育て、「課題研究」ではミツバチを飼って学校の中にある花からハチミツを取っています。
私は農業の科目を選択して農業っていいなあと痛感しています。田んぼから吹いてくる風はとてもさわやかだし、稲のさらさらという音はお金には変えることができない幸せな気分にしてくれます。私たちは自分たちの周りにある自然だと感じている風景が農業のおかげだと感謝すべきだと思います。農業は単に食料を提供するのではなく、私たちが自然だと感じている風や水や土や生き物たちの源です。農業に、もっともっと尊敬と感謝の気持ちを持つことが必要だと思います。自然の空気は何ものにも変えられないものです。今農業に興味がない人でも、一度自然に囲まれて心からリラックスできたら変わってくると思います。
畑で野菜を作っていると、畑には野菜以外にいろいろな生き物がいることにびっくりしました。チョウ、ハチ、トンボ、バッタ、カマキリ、てんとう虫、カエル、クモ、ミミズ、時にはモグラやタヌキやハクビシンに畑を荒らされたり、ハトやヒヨドリに野菜をつつかれたりもしました。しかし、考えてみると自然とはそういうものです。私は「エコロジー」という環境に関する授業も選択していますが、その授業で見学に行った丹野池というのは、茶園へ過剰に投与され流れ出した肥料が原因で水が酸性化しており、コバルトブルーに輝く池の水はどこまでも澄んでいてきれいなのですが、魚もいない水草も生えていない、透き通った池の底に枯れた木が横たわっているとっても不気味な池でした。考えてみると虫がいない野菜はおかしいのです。トウモロコシにはアワノメイガという虫がつきます。私は、虫が付いた野菜なんて食べられないと思っていました。しかし、「虫が付いているのはおいしい証拠なのだ」ということが、トウモロコシを生で食べてみて納得でき、今では野菜に虫が付いていてもあまり気にならなくなりました。消費者はわがままで、「ムシがついた野菜はだめ、でも無農薬や減農薬の野菜を作ってほしい」と思っていますが、それは生産者から言うと無理に近いことです。
野菜の形についても同じことが言えます。人間だって同じ顔、同じ背の高さの人はいません。自分で実際野菜を作ってみることで、野菜にだっていろいろな形やいろいろな大きさがあってもいいと考えることができるようになりました。キュウリはとってもデリケートで手入れが悪いとすぐ曲がったキュウリができてしまいます。私は曲がったキュウリの値段が安いのは、形が悪いだけでなく、味も悪くおいしくないからだと思っていました。しかし、食べてみたら味は変わりません。逆に、キュウリの株に丸まりながらちょこんとくっついている曲がりキュウリが、とてもかわいらしく愛着がわいたものでした。
大根とニンジンを育てた時にも発見がありました。大根の葉はとてもおいしく、味噌汁や炒めものにしてとてもおいしくいただけるのです。ニンジンの葉は少し苦かったのですが栄養分はとてもありそうでした。現在の日本の農産物の流通では、なぜ大根やニンジンの葉を捨てているのでしょうか。
農産物の流通は生産者と消費者の役割分担がされすぎていると思います。温室メロンを作ることになったとき、最初はメロンを食べることがとても楽しみでした。しかし、苗から少しずつ大きくなっていくのを見ながら、いろいろな手間をかけているとメロンに対して愛着というか愛情がどんどんわいてきて、実際食べる時になったら、食べてしまうのがもったいなくて、「でも、せっかく大きくなってくれたのだから味わって食べなくちゃ」と思いながら少しずつ少しずつ、いろいろなことを思い出しながら食べました。生産者は作るだけ、消費者は食べるだけと役割に分かれていますが、生き物を育てて食べさせてもらっているという、一番大切なことが伝わっていないのではないかと思います。農産物は品種改良が進み苦味や臭みが少ないものに変わってきていますが、それは農産物が消費者に与えられる受身のものであり、それは本来の植物が持っている特性とはかけ離れたものになっています。そこには生命に対する尊厳の念や愛着が欠けていると思います。
他にも、野菜を育ててみると、次から次へと疑問がわいてきます。例えば野菜を収穫した時に野菜を洗うのはなぜでしょう。大根やニンジンやジャガイモを収穫すると小さな根がたくさんついています。土を洗い流すとこれらの根は全部取れてしまいます。土から取り出された野菜の生命力は思ったほど長くないはずです。洗うことでさらに生命力を短くしておきながら、保存料や防腐剤で長持ちさせているのはとてもおかしなことです。
このように、野菜を作ることでいままで当たり前に思っていたことに、いろいろな疑問を感じるようになりましたが、うれしい発見もたくさんありました。一番痛感していることは「収穫してすぐに調理や加工して食べることほど贅沢なことはないんだ」ということです。今はグルメブームで『こだわりの料理』が大流行です。世界各地や日本全国からおいしい食材や珍しい食材を見つけてきたり、自然農法や有機農法といった特殊な作り方をしている食材を集めてきたりして、一流の職人が心を込めてつくるのがこだわりの料理とされています。でも、私は本当のこだわりの料理とは、自分が育てたり、自分が畑に出かけて収穫したりした旬の食材を、その場で自分の手で料理することだと思います。『食は文化』といいます。大阪のたこ焼きや広島のお好み焼きや香川のうどんがおいしいのは、瀬戸内海性気候で雨が少なく、その場所で小麦が作られていたからであって、おいしいうどんを作るためにオーストラリアに小麦を捜し求めるのは本末転倒です。
『旬』と言う言葉の意味も野菜作りを通して知りました。日本には四季があって、その時その時にあった食べ物があります。夏におでんを食べないように、冬にそうめんを食べないように、その季節には季節に合った野菜があるはずです。「インカ帝国で太陽の贈り物といわれていたトマトは太陽が大好きなんだ」という話を聞きながら食べた真夏の真っ赤なトマトの味や、白菜を漬け物にするために洗った真冬の水の冷たさは今でも忘れません。旬の野菜はとてもおいしく新鮮で、そこにドラマがあります。栄養素も旬のものと、そうでないものでは違うはずです。
農業を体験してみて私は人の生き方についても考えさせられています。農業を学習する上で大切なのは責任を持つことです。畑に種をまいただけでは農作物は育ちません。国語や数学や英語の授業では自分が休んだり、手を抜いたりしても困るのは自分だけですが、農業の場合は自分が休むと植物がうまく育ってくれません。わき芽とりや誘引はめんどくさいし、暑い日の実習や草取りはいやだなと思ったけど、他の人はやってくれないし、大変なことでも自分がやらないといけません。植物はとても正直です。うそをつきません。やるべきことを責任もってやってあげないとうまく育ってくれないのです。
反面、「正しいことはひとつではない」ということも農業の面白いところです。肥料をやる回数や量を少し変えたり、農薬の種類を変えてみたり、まだ農業の初心者である私には自分なりの工夫としてやれることは少しなのですが、植物の生理や作業の目的を考えながら自分なりに工夫できることはとても楽しいことだと思いました。マニュアルはないといけないけど、それに縛られる必要はないということは、人と人との付き合い方にも共通することだと思います。
総合学科の高校に入学して農業に接してみて、私はいろいろな考え方ができるようになったと思います。私は将来調理師になることを目指していますが、自分で育てたり自分で見つけたりした旬の食材を使って、食材に愛着を感じながら、おいしい料理を作りたいと考えています。
そして、自然に感謝でき、人間味があふれた、責任感のある大人になりたいと思います。